稲沢市内人口の地域偏在と学校統廃合・その1

子育てと家族力

これは、まさしく私自身の経緯経験も当てはまるトピックになります。

実際に旧稲沢市内から旧祖父江町へ移住した身として、当時最初に課題としたのが生活環境の改善です。長女を授かりちょうど1年が経った頃で、それまでの賃貸住まいでは手狭になるためより広い居住空間を確保したかった、という物理的な環境改善の需要もとうぜんありました。ただそれよりも、自然の多いところで子育てがしたいという想いが最優先だったのです。旧稲沢市内と比較して、当時は今ほど道が繋がっていなかったりショップやサービスもまだまだでした。けれども、アウトドア体験が好きなこともあり、かえってその方が手探りで楽しいよねと、この点については楽観的だったのです。自分自身が下町で育ったこともあり、喧騒のない中で緑に囲まれて暮らす毎日への憧れがとても強く、むしろすべてにおいてQOLは上がるだろうと考えていました。一点を除いては、です。

ちょうど狙ったかのように一市二町合併直後の転居でしたので、中島郡祖父江町だった頃の名残はあちらこちらで見かけることができました。越してきてすぐに耳にしたのが住民サービス、福祉に対する変化のことでした。良し悪しの議論はさておき、ここが先程のある一点と強くリンクしています。それは、小学校のことです。すでに旧稲沢市内の頃から過疎化については聞き及んでいました。情報として得ていた「1学年1クラス20人前後」という数字は、子育て世代となったばかりの親として、正直に申し上げれば期待感のほうが強かったのです。自分自身が団塊ジュニア世代としてこの世に生を受け、生まれてからずっと競争ばかりでした。最初に授かった長女は、私が34歳の頃でした。後付けっぽい理由になるかもしれませんが、あえて団塊ジュニア世代の結婚のピークを避けたかったのです。

先月の令和5年2月28日付ですが、厚労省により昨年令和4年12月の人口動態速報が公表されました。これによると、令和4年の出生数が79万人台と、1899年の統計開始以来はじめて80万人を割ったことがわかります。この件については悲観的なニュースを少なからず目にしていますが、Iターンに近い転居を実際にしてみた私にとってはすこし違う意味のデータとして目に映っています。

コロナ禍によって、たとえばブライダルのありかたは激変しました。もちろんそれだけではありません。しかし、それまでのあらゆる”問題”を「課題」として浮き彫りにしてくれた、とポジティブに捉えることもできます。その視点でいえば、本件にあってもむしろ稲沢市にとっては追い風になるのでは、とすら考えています。

このテーマは、長岡小学校PTA会長時代のブログなどで折にふれ述べてきたこともあり、長くなるのを前提に今回エントリータイトルを「その1」としました。今後、なぜポジティブと捉えているのかについてシリーズとしてしたためていきます。