本人@髙村むねかつ のプロフィール・略歴です。

トーイ
トーイ

ようやくプロフィールのページができたんだぞい(いまだ未完だけどだぞい)

たかむら
たかむら

特に隠してたわけでも、はずかしいからとかいうわけでもないけど

公開は投稿数が80件を超えたらって決めてたからね

トーイ
トーイ

オイラのプロフィールも紹介してほしいんだぞい

たかむら
たかむら

すでにこれまでの投稿の中で、書ききれないくらいにキミの魅力をお伝えしてきてるじゃないか

トーイ
トーイ

・・・

トーイ
トーイ

!!!

そういえば、勝手にカミングアウトしたの思い出したぞいっ!

たかむら
たかむら

まだ根に持ってたのか・・・

こんな小バナシのように、いつもこのブログの出だしと締めに登場するミニチュア・シュナウザーの「トーイ」は、生まれたそのときからずっとそばにいてくれた愛犬です。お察しのとおり、すでにこの祖父江町の空に還っていきました。

いまの我が家は、はたらきものの妻、高3の長女、中2の長男、そしてそのトーイのお嫁さんである「メリィ」の5人家族です。ばーちゃん(母)もすぐ近くに住んでいます。このブログやホームページ、パンフレット、ポスターなどの文章やデザインはすべてみんなの意見をくみいれてつくられています。いつもの長文ブログもひとまずは読んでいてくれるようです。

そして、ご多分に漏れずこのページも長い文章をしたためています。あらかじめご了承ください。

たかむら
たかむら

また、わたしたち「ONE! INAZAWA」の政策については、こちらでご紹介していますので、お手空きの際にでもご一読ください。

まずは、生い立ちです。

母いわく「東山動物園のペンギンの鳴き声が聞こえる産院」で産湯につかったわたしは、名古屋市生まれの名古屋育ちです。小学校は、たしか4クラスあって、1クラスあたり45人だったと記憶しています。ちょうど高層のビルやマンションが立ち並びだした高度成長期の下町で育ったわたしですが、その反面で小学生から参加したカブスカウト、ボーイスカウトの活動の中でアウトドアに強い興味を抱くようになりました。小学生の頃の愛読書は残留日本兵として知られている横井庄一さんの「サバイバル極意書 もっと困れ!」を筆頭にサバイバルものをばかりでした。横井庄一さんの伝記は特に大好きで、なぜか就寝前に何度も読み返していました。蚊にまつわるエピソードにいたっては、今でも刺されるたびに思い出しています。島生活で隠れ家の中で刺されすぎてそのうちかゆくもなんともなくなったけど、無事日本に帰ってきてからしばらくしたらやっぱりかゆくなっちゃった、という話です。実はこのかた、愛西市(海部郡佐織村)のご出身なんですね。知らなかった・・・。

かと思えば、中学生時代にパソコンゲーム用のコンピューターグラフィックスの制作のお手伝いをしたりと、伸び盛りのデジタル文化にも積極的に触れあってきました。ファミコンの登場も小学生高学年のころでしたでしょうか。

モニターも含めたIBMの最新パソコンの無償貸与に釣られ名古屋商科大学商学部に進学しましたが、卒業までが本当にたいへんでした。レポートもすべてワープロ打ちのプリントアウト提出だったので、大学まで距離があったこともあり泣けなしの予算でプリンターも購入しました。たしか10万円ちょいでした。今はなき横河ヒューレット・パッカード社のものです。

講義への出席は逐一マークシートで管理されていて、無論、代返などの逃げ道はなくとにかく4年間ずっと大学に通っていました。例年、3割位が留年、中退の憂き目にあうなかなかスパルタな大学です(当時、そう聞いていました)。大学院がMBA取得でも有名で、台湾からみえられた留学生ともコミュニケーションする機会があるなど、振り返ると国内でははやい段階からグローバルな展開をしていたように思います。中日ドラゴンズの大豊泰昭(故人)さんがOBです。大豊飯店へはけっきょく行けずじまいでした。

当時は学園側も学生の確保に必死で、人気教授の招聘も著しく、そのおかげか楽しみにしていた講義も少なくはありませんでした。そうして半ば強制的ではありますが、テストも難しかったこともあり、まじめに勉強に取り組まざるをえなかった結果、義務教育や高校では教わることのなかった、金融、会計、労務、経済、心理学、ITの幅広い基礎固めができました。特に、セミナー(いわゆるゼミ)で師事した垣谷宏子先生(垣谷女史とぼくらは呼ばせてもらっていました)からは環境についての多くの知見をいただき、これがこのブログでも投稿しているような将来の活動へ繋がることとなります。卒論の題材に地球環境と熱力学の関係性を示すエントロピーのことを取り上げましたが、意地でもバッドエンドで締めくくろうとするわたしをハッピーエンドで結ぶよう優しく諭して導いてくださったことを忘れてはいません。さらに、結果は不合格でしたが、在学中に宅建(現在の宅地建物取引士で、当時は宅地建物取引主任者資格という名称でした)にチャレンジしていて就職活動が遅れがちだったわたしを見かねて「卒業後に教授棟でアシスタントの仕事をしてみない?」と声をかけていただいたことを、これまた忘れはいたしません。

その在学中に、オートバイの乗り方を教えてくださっていたかた(このかたは稲沢市にお勤めでしたが)から国府宮はだかまつり参加の誘いをいただき、松下区で生まれてはじめてさらしを巻いてもみ合いに巻き込まれたあの経験がわたしが稲沢市に移り住むとても大きなきっかけとなりました。それまで経験したことのない興奮や熱狂もそうですが、ここからすこしずつ交友の輪がひろがっていったのです。

いざ、社会へ~さまざまなクエストとの遭遇

卒業後ほどなくして、アパートニュースで知られる株式会社ニッショーへ入社しました。後に人事の課長さんからお聞きしたのですが、このときの競争率は3,000倍とのことでした。おそらく書類選考ベースだとは思うのですが、昭和46年生まれの団塊ジュニア世代のわたしとしては「ふむふむ、ほうほう」というくらいの感想でした。スーパーウルトラ買い手市場だったので、たしかに同期にはすごいやつが多かった印象があります。そして、ほどなくして高御堂にできたあたらしいオフィスにて勤務することになります。学生時代に果たせなかった宅建合格もちょうどそのころでしょうか。

職務上、大家さんに変わって建設ディベロッパーとの交渉が発生することがありますが、不動産業だけの知識ではどうあがいても建築実務や構造、材料学の話題になると勝てません。

「くやしい」

ベビーブームで、生まれたときからなんでも競争してきた慣習が背中を押したのか、はたまた負けず嫌いの悪い癖なのか、上司(ニッショーさんではとても上司に恵まれました)と相談してもやはり在職しながらの建築士取得が難しいということでここでひとつの転機が訪れます。東海工業専門学校熱田校の夜間の建築部で学ぶこととしました。

2年間、ほぼ平日は毎日よる7時からの10時ごろ(だったと思います)の講座を受けてきたわけですが、それは自分が選んだ道なので苦労話はさておき、この期間は思いのほか濃密な時間を過ごすことができました。同じクラスのそのほとんどが社会人で、みな建築に対してなにかの野望をもって毎日顔をあわせるわけです。現業のかたはもちろんですが、異業種からのスキルアップチャレンジが多いので、話題には事欠かなかったですね。だれもが昼間は働いているわけですから。また、大学時代におなじセミナーだった同窓が、なぜか昼間部に通っていたというサプライズもありました。

土木設計事務所へ

正職をもちながらの受講が本意でしたがこれはかなわず、それでもいろいろなチャレンジをしました。最初に応募した建築設計事務所(K設計)さんは、そのときは不採用にはなりましたが、わたしの履歴書を保存していてくださって2年後の卒業時には面接のお誘いをいただきました。このときすでに本命があったので丁重にお断りしましたが、ほんとうにありがたく感じたものです。当初の面接時には、某駅前の巨大建設物の模型を見せてくださったりと、心から憧れた世界がそこにあったのですが。

ほどなく、土木設計の事務所へのアルバイトが決まりましたが、事務所長(社長とお呼びしていましたが)はずいぶん心の広い方でした。はじめてWindows95をさわったのもこちらの事務所です。建築と土木は、なんというのでしょう?お互い相容れない部分があるような気がしますが、建築志望でもべつに構わないよともったいぶらずに多くのことを教えていただきました。ほぼ素人ですから、ほとんど役立たずだったと思うのですが、図面の書き方から(当時はCADはまだまだ発展途上でしたのでドラフターです)土量計算などのすこしこみいったことまで、仕事をまかせてくださいました。コンサルへのお使いとか楽しかった思い出です。事務所に顔をよく出しに来ていた同業の若い設計士さんが「建築なんてつまんないから、土木こいよ」と声をかけてくださいました。あつかう対象や完成物は建築よりはるかに規模がでかく、しかもアウトドア要素満載ですから心惹かれたのはたしかなんですが。やはり時給の都合上、他のバイトととのかけもちせざるを得ず「畑違いはやむを得ない」と自分に言い聞かせてながら半年ほどでご無礼させていただきました。

名古屋中央郵便局へ

その後もいくつかバイトを経験しましたが、できれば持っている資格を活かせるもので選んでいました。上でも触れたように、オートバイは好きだったのでピザの宅配などを考えたのですが、夜7時に熱田区までどうも向かえそうにありません。紆余曲折あるうちに、郵便局の配達の募集が目に止まりました。場所は、名駅となりの名古屋中央郵便局です。短時間職員とゆうメイトという2種類でしたが、ひとまず制服不要の後者で面接に向かいました。その際の局長さんがたいへん気さくなかたで、採用後もわたしが建築を志していることを前提に「郵政建築」と呼ばれる独特のデザインがあることを教えてくださいました。実際に建物の中を案内していただいたりしたこともございます。局長さんたちは全国を飛び回っているそうで、残念ながらしばらくしてから移動されてしまいましたが、いっしょに食堂でごはんをしてくださったり当時の最新の自動仕分けシステムを見せてくださったりと、今でも本当にありがたい思い出となっています。

実際のお仕事的には、名古屋駅周辺エリアをゆうパックなどをお届けするのがメインだったのですが、このときに念願かなって真っ赤な車体に黄色ナンバーのあの郵政カブにまたがることができました。バイクの免許ありますと伝えたら「それなら乗っていっていいよ~」でしたので、なんでも言ってみるものです。ですから、あるときまで名駅周辺の道路事情やビルなどの建物の情報にむちゃくちゃくわしかったんです。いまではすっかり忘れてしまいましたが。

なお、ここでも高校の同級生に遭遇しました。プライバシーもあるので職種は明かせませんが、制服がよく似合っていて「やるじゃん」とよい刺激を受けたものです。

名古屋でいちばんいそがしい(取扱量が多いと思うのですが、集配レベルでいくとやはり熱田がいちばんなのかな)局だとは思うのですが、本当に雰囲気のよい職場でした。大事な郵便物を扱うお仕事なのでやはり厳粛なところもありますが、上長のかたたちがなんとも男くさくてかっこいいんですよ。その上、若手のかたもとてもにこやかなんです。しかも仕事はてきぱきとすごいスピードですし。なんでしょう?体育会系のようなノリともちがいますし、うーん。とにかく、かっこいいのです。

勤務日の都合がつけやすかったので、名古屋中央郵便局では1年ほど働かせていただきました。さいごの去り際ですが、いつも無口でハードボイルドだなと思っていた課長さんから「がんばれよ!」とほんとうにすてきな笑顔と握手で送り出していただいて、その日は1日なんだかとてもほっこりしていました。

鉄筋の圧接屋さん(鍛冶屋さん)

そして、時計の針がすこし戻りますが、真冬の約3ヶ月ほど鉄筋圧接のアルバイトに雇ってもらいました。その動機は「後学のためにもRC(鉄筋コンクリート)造の建物の躯体(骨組み)を間近で見たい」というシンプルなものでしたが、短い間ながらもこの期間に得たものは大きな資産となっています。ひとり親方の社長(と勝手にお呼びしていた)についてほぼ毎日毎回ちがう現場へと飛び回るバラエティに溢れたお仕事ですが、内容はめちゃくちゃにハードです。最初に覚えなくてはならなかった仕事のひとつが、最大5メートルくらい(間違ってたらすいません)にもなる鉄筋の立て方です。ただ持つだけではなく、立てて持つのです。実際に現場であつかっていたのは、だいたい直径30mm(D29)くらいのものが多かったような。現場はRC造ばかりなので当然ビルやマンション中心ですが、高層の物件になると「D51(でごいち)」とかいうオバケのようなやつも実際にいました。ですが、たぶんこれは立てていません。おぼろげな記憶ですが。本来、専門の鉄筋屋さんがみえるわけでして、圧接屋さんとしてはこの鉄筋運搬はメイン業務ではないのですが、立てて持つだけではなく、立てたあとに立てたまま圧接機(溶接機)のところまで運んだりするわけです。慣れてくると、重心がつかめるようになるんですよ、これが。それと、鉄筋の切り口をグラインダーできれいにする仕事も覚えさせてもらいました。慣れないうちは何度か自分の親指をすってしまいました。革手袋が支給されていたのですが、やぶきすぎて最後は「いいかげんに上達しろ」とお叱りをうけました。その後は、ちゃんとほめてもらえまでにはなりましたよ。

この「圧接」という言葉はあまり聞き慣れないかたも多いかと思いますが、そういうわたしも現物を間近で見るまでいまひとつピンと来ませんでした。結果的に、通勤中の事故によるケガが原因で短期に終わってしまいましたが、あの真っ赤に焼けた太い鉄筋が圧力で押されながらひっついていく様子は今でもはっきりと覚えています。現場でサングラス着用が許されてたのも。

建築、建設業界では、溶接に携わる職人さんを「鍛冶屋さん」と呼びます(たぶん、全国的に)。現場で他の職種のかたに声をかけることが往々にしてあるのですが、もちろん顔も名前もお互い知りません(とくにわたしのような新入りは)。だから、職種で呼び合うわけです。足場屋さんなら「鳶(とび)さん」とか、いろいろあります。まだまだ語り尽くすことはできませんが、とにかく社長への感謝とともに思い出も多いそんな世界でした。そんなこんな硬派な世界で学んだことは、やはり将来となったいまあらゆるクエスト(課題)・シーン(場面)で自然と活きています。

追記しながら思い出しましたが、高校時代からの友人が足場屋さんのひとり親方をしていて、2~3回手伝いにいったことがあります。いまはすっかり主流になった「くさび式足場」ですが、当時はじめて組み・ばらし(の手伝い)を体験したわたしにとっては、ものすごく画期的なものに見えました。いまでは自分でちょいちょい使うことがあるのですが、その度に足場システムのすばらしさに驚嘆します。最初に考えたひとは天才だな、と。そして、それを超スピードで組み上げる職人さんにも。

自動車オイルの販売応援

これは書こうかどうか迷ったのですが、実際の経験でもありますでのしたためてみます。「if(イフ・もし)」要素もすこし混ざってきます。

某自動車用オイルメーカーさんから直接、東海工業専門学校熱田校にアルバイトの募集がかけられていました。ロビーの掲示板で見かけたのですが、修了も間際で就職先も決まっていましたし、時給もよかったので(やはり生活がかかっていましたから)、なにげに応募してしまいました。期間はたしか3ヶ月ほどです。

つぎが「if(イフ・もし)」要素です。

動機のひとつとして、学生時代に宅建以外にチャレンジを真剣に考えていたのがオートバイ屋さんだったことがあります。そのために3級自動二輪整備士(国家資格)を目指そうともしていました。乗るのも好きですが、メカも好きだったのです。けしてふだんの整備、メンテナンスは褒められたものではありませんでしたが(これがその後思い知らされることになるわけでして)。

そして、書いていて思い出しました。大学生現役時代にヤマハ発動機株式会社に応募したけれども書類選考で不採用だったことを。

それはともかく、この頃モトクロスにチャレンジしていたりと自動車・二輪車業界への興味はつきることはなかったわけでして、このエリアのオー●バッ●スさんや●エローハッ●さん、ジェ●ム●さんを順に回って実際の店頭でオイルの販路拡大営業をするお仕事は、ある意味、再び社会へ戻る前のさいごの悪あがきだったのかもしれません。

たしか、来店者数の多い土日祝のみの勤務だったと思います。女性の部長さんからの事前研修もあり、その際も日当をいただけた記憶があります。会社からのオーダーは「自社のオイルの販路拡大、プロモーションが大前提だけれど、けしてそれに固執しなくてもOK。他社のオイルのファンもいる中へのマーケティングだから~」というものでした。その割には「誰々くんは今日は何缶売った」とかえらく数字にこだわるな、というのがわたしの当時の感想でしたが、これがじつは伏線だったようで。

やはり、カー用品やメンテナンス業界には「クルマが好きだからここで働いている」というかたが少なくありません。細かい動機はまたひとそれぞれなんでしょうが、休憩室で店員さんとコミュニケーションがとれたときなんかは趣味の話題で盛り上がりました。オイルのことはもちろんですが、カーステレオの取り付けやドライブルートなど、クルマにまつわるハナシが中心です。まだ、ネットも一般的ではなく、携帯電話も白黒(緑黒)画面でカメラなんかついていない時代でしたから、こうした情報交換はとても貴重でした。

このオイルの店頭販売応援のお仕事は、毎回業務が終わるたびにマネージャーさんに連絡をいれるのですが、最終回くらいにいっしょにごはんへ行こうというお誘いをいただきました。なにを食べたのかをまるっきり思い出せませんが、そのごはんの意味はよく覚えています。就職のお誘いだったのです。マネージャーさん(男性)に「うちの会社へ来ない?」と切り出されてかなり不意をつかれました。まったく予想していなかったので。逆に「ボクは、けしてオイルをたくさん売る方ではなかったし、お役には立てません」と丁重にお断りをいれるわけですがなかなか解放してもらえません。「むしろそういう営業のスタイルがいい」ともいわれましたが、どうもいまひとつピンときません。外資系だったので「自己管理、自己責任がきついんだろうなあ」という勘ぐりもありますが、なにしろ「今回の一連のアルバイト募集は、このエリアを任せられる人材を発掘するための仕掛けだったんだ」とも告白されても、それでもなんともピンと来ません。

それよりもなによりも、すでに就職先は決まっていたわけですから。

その旨を何度お伝えしても「いっしょに内定辞退に土下座しにいってあげるから」など、勧誘についてはそうしたなんとも昭和感あふれる展開がその後しばらく続きました。

二度目の新卒体験

そして、二度目の新卒体験です。

株式会社スペース(東証プライム:9622)に入社しました。ウィキペディアでは「日本の大手ディスプレイデザイン会社。主に商業空間や専門店等の企画・デザインや施工を手がける。地盤は名古屋だが、4本部制で全国展開。乃村工藝社、丹青社に次ぐ、日本の店舗施工・ディスプレイ業者のひとつである」と紹介されています。建築業種的には、いわゆる「店装業」とわたしはカテゴライズしています。ショッピングモール全体やそのテナントさんはもちろんのこと、イベント会場、テーマパークなどの施設から個人営業のお店やチェーン店など、ありとあらゆる業種、業界を垣間見ることができるのがこちらの企業への志望動機でした。同期はみな第1新卒ですから20~22歳です。わたしはとうぜん年上になります。そのためか同期からは「おとうさん」の愛称で呼ばれていました。

なぜだかニッショーさんのときと同様に志望倍率を部長さんからうかがう機会がありました。たしか慰安旅行のときだったと思います。「おまえのときは700倍だったんだぞ」と。再チャレンジということもあり、このときはさすがに「よくぞ入社できたもんだ」とすこしだけ自分をねぎらいました。

実際のお仕事の内容はというと、わたしはテナントの施工管理が中心でしたが、とにかくあらゆる業種の現場にたずさわることができたのがうれしかったんです。とりわけ、現場では監督(監理)として職人さんたちと濃密な時間をすごしてきました。たまには意見の相違もありますが、さいごは完成物をお客様に引き渡ししなければならないのはもちろんなのでみな必死です。あらゆる工程が入り組む中、いっしょに汗をかきつつゴールに向かってひたすら仕事を進めていくあの一体感はやはり建築の醍醐味です。そしてわたしは、ほんとうにすばらしい職人さんがたに恵まれました。

なにもない裸の躯体のがらんどうのスペース(空間)が、みなさんがよくご存知のあの美しい店舗へと姿を変えていくその瞬間をずっと見守っていきます。内装や表装が「お化粧工事」と呼ばれる由縁ですね。コンプライアンスもありますので具体名は避けますが「あの●●という企業さんのショップはほんとうにむずかしかった」とか「なるほどこんなデザインもあるのか」など話題はつきません。それにけっこうハードな業界でしたし。また、建築・建設業界にあっても、みなサラリーマンではありますが企業としてデザイナーが多く在籍する感じでしたので、時間の使い方や服装など比較的自由度が高かったのも特徴です。

独立へ

その後、家族間での込み入った事情もあり、脱サラ(独立)へと歩を進めます。このときすでに奥さんとは出逢っています。世間はIT・インターネット・バブル真っ盛りでした。パソコンサポート・修理のテクニカルショップとして弟がメインのメカニック兼サポート担当、わたしがホームページ制作のWebデザイナーとしてスタートしましたが、やはり道のりはそう甘くありませんでした。2年ほどで弟が離脱した後、わたしひとりで切り盛りしていくわけですが、振り返るとすでに20年以上が経過しました。

なぜ稲沢市(旭町区)をえらんだのか?

実は、ボーイスカウトのころから、稲沢へはたびたび訪れていました。同じ団に市内の後輩がいたこともありますが、思い出としては今はなきパルのスケートリンクです。

また、善光寺東海別院さんでの合宿経験もあるようです。こちらはカブスカウト時代で、なおかつ中島郡祖父江町時代ですが。次の投稿で触れています。

そして本題ですが、きっかけは妻からの「まず同棲しようよ」という提案でした。そして「いっしょに暮らすなら稲沢で」というわたしの願いを素直に聞き入れてくれました。名古屋は、はなから選択肢にはありませんでした。

ほどなく、稲葉(旭町区)にペットOKのアパートが見つかります。ここでは7年という月日を過ごすことになりました。

ほんとうにただ純粋に「稲沢市」で暮らしてみたかったのです。

なぜ祖父江町(長岡区)を終の住まいに選んだのか?

つぎの投稿をご覧ください。

なぜNPO法人ネイヴルを立ち上げたのか?

つぎの投稿をご覧ください。

主な経歴や資格、肩書などです

平成29年度 稲沢市立長岡小学校 PTA会長
平成30年度 稲沢市立長岡小学校 学校評議員
平成30年度 祖父江町PTA連絡協議会 副会長
稲沢市観光基本計画策定委員会 委員
稲沢市消費生活モニター
祖父江町商工会 事業専門委員 
そぶえイチョウ黄葉まつり実行委員会 渉外宣伝部

資格

二級建築士、宅地建物取引士、自転車安全整備士、自転車技士ほか

肩書

特定非営利活動法人人ネイヴル 理事長
エイトボールデザインズ代表(有限会社エイトボール 取締役)

座右の銘

「温故知新」

「段取り八分」(2023.10.24追記)

いつもの〆です

トーイ
トーイ

そういえば、どこにもオイラの写真がないんだぞい

たかむら
たかむら

トーイはいつでもボクの心の中にいるし

そこからそのクリクリした目でみつめてくれてるからそれでいいじゃないか