行政は眠らない?稲沢市の業務継続計画(BCP)から災害発生後の最適アクションを考えてみる:その1

災害・ハザードマップ

近年、どんなアクシデントや災害が発生した後でも業務がけして滞らないように、事前に「事業継続計画」を立てておくことは一定以上の規模の企業や組織、団体にとって欠かせないものとなっています。これは「BCP(Business Continuity Plan)」と呼ばれ、とうぜん稲沢市も年次ごとに策定を進めていますが、今回あらためて稲沢市のBCPを眺めていたところ、いろいろと興味深いデータを見つけることができました。

稲沢市業務継続計画(下はPDFファイルへのリンク)http://www.city.inazawa.aichi.jp/res/projects/default_project/_page/001/002/220/r04_bcp.pdf

ただ「もったいないな」と感じたのはこの計画書がPDFのみで一般公開されていることです。PDFファイルですと、特定の情報を得たくともスマホなどでアクセスした場合には毎回ファイル全体をダウンロードする必要があり、これはストレスになります。せっかくの有益な情報ですので、この機会に南海トラフ巨大地震などの大型災害をイメージしつつ、イザ!というときに向けて取るべき行動も含めてシリーズで考えていきます。

もはや他人事ではなくなった大型自然災害

令和に入ってからやけに「危機」のニュースが増えてきたなと感じているのはわたしだけではないはず。特に「地震」や「台風」「豪雨」などの自然災害は、緊急速報の必要性の高さゆえに手元に情報が届くスピードもはやいため、ますます身近なものになってきたように思えて仕方がありません。

携帯電話各社がお住まいのエリアごとに緊急速報メールのサービスを実施しています。ありがたいサービスなのですが、あの独特の警告音はほんとうに”苦手”なんです…。でもこれは褒め言葉ですよ。あの音を考えたかたはすごい!

あと、J-ALERT(ジェイアラート:全国瞬時警報システム)もそうなんですが、いざ耳にすると軽いパニックにおちいってしまい、瞬時にどこでなにが起こる(起きている)のかうろたえてしまって冷静に判断できずにいることもしばしばです。やはり、慌ててしうんですよね。

そして、その恐怖?の音声を集めたものがYOUTUBE上で公開されています。いざというときにわたしのようにあわてないためにも「習うより慣れろ」ではありませんが、こうしたコンテンツに目と耳を通しておくのもよいでしょう。

こうした背景をもとに、このブログでも「災害・ハザードマップ」のカテゴリーを設けています。災害は、これは、予備知識だけではなく、実際に”万が一の災害”が発生したときに頼ることができるもののひとつとして正確な情報

わたくし、髙村(高村)宗克 の被災体験

実はこれまでいくつかの自然災害に被災・遭遇したことがあります。中でも、もっとも記憶にあたらしいのが名古屋市で発生した「東海豪雨」です。ここ稲沢市も浸水被害があったので、ご存じの方も多いでしょう。その被害規模は、1959年(昭和34年)の伊勢湾台風以来の水害といわれるとおり、この濃尾平野としては近代でも最悪のレベルのものだといえます。以下の画像は、実際の被災現場の空撮画像で、名古屋市の東海豪雨20年事業の中で公開されている一枚です。

この空撮された「名古屋市北区の楠インターチェンジ付近」がまさしくわたしの被災地です。平成12年9月、西暦でいえばちょうど2000年のこと。不発に終わったノストラダムスの大予言やミレニアムで盛り上がっていた頃ですね。20代後半だった当時、このエリアに建つマンションの7階に住んでいました。

その日の夕方、仕事を終えクルマで帰宅しましたが、駐車場にたどり着いた時間帯にはすでにワイパーなどまったく意味をなさないレベルのプールの通過シャワーのような強烈な雨になっていました。ただ、早く屋根のあるところへ駆け込むことに精一杯で、クルマはいつもどおりの契約スペースに停めたままにしてしまったのです。そのときまさかあれほどの浸水深になるとは予想だにもせず、本当に後悔先に立たずですが。その後、庄内川、地蔵川などの複数の河川の氾濫によりあれよあれよいう間に水が昇ってきました。マンション住人総出で通路、階段から建物全体が徐々に水に沈んでいくのをただただ見守るばかりです。わたしのクルマも、徐々に沈んでいきます。水に浸かると短絡して配線がオンになるのか、勝手にライトが点いたりクラクションを鳴らしだすんですよね。最後はついに、ワイパーまで動き出しました。それがまるでお別れの手を振っているように見えてとても切なくなりました。

一夜が明けますが、まだ水はひいていません。しかし、2階部分まで飲み込んでいたことから思えば、見る限りでは胸の部分くらいまでの深さのようです。断水もしており、すでに精神的にはサバイバルです。「このままどうなるんだろう。どうやって食料や水を調達しようか?」とぼんやり考えていました。

インターネットはまだまだ低速のダイヤルアップが主流の普及期で、ホームページといえば個人が手作りしたものばかりでした。SNSはもちろんのこと、ブログすらまだ登場していません。今のように災害速報が迅速に共有されるシステムそのものがこの日本にはありませんでした。というよりも、ネットを使って情報を得ようとした記憶がありません。自分の目に見える範囲の外でいったい何が起こっているのかがまったく掴めないのです。過酷な状況の中で悪いイメージ・想像ばかりが加速していきます。非日常的な時間がただただ素早く過ぎ去ってくれることを祈るばかりでした。

そもそも、地上5メートル以上浸水していたので、携帯も固定電話回線も不通だったと思います。電気も来ていません。このあたり部分的に記憶がさだかでないのが残念ですが、翌々日まで避難先の弟と連絡がとれなかったのは確かなので。

ぼちぼち水が引き始めた頃、ふと気がついたのです。折りしもブラックバスフィッシングが大ブームのときでルアー釣りの師匠だった弟が”ウェーダー”と呼ばれる防水性の胴長靴を残していっていたのを思い出したのです。

いま思えば「よくマンホールに落ちなかったな」と若気の至りを反省しています。

こうして住人で唯ひとりマンションを脱出したわたしは、胸まで水につかりながら非日常世界へと没してしまったいつもの街をさまよい歩きつつ、一番近いコンビニへと向かったのです。到着時、すでにもう棚に商品はなにもない状態でしたが。

この体験はじつはトラウマになっており、今でも大雨が降るとさまざまな恐怖感を感じます。

阪神淡路大震災のときも、ちょうどこのマンションに住んでいました。ふと目をさますと遊園地のアトラクションばりに右へ左へグワングワン揺れているのです。しかも、振り子時計のようにゆっくりとですから、いつかへし折れるのではと恐怖でしかありませんでした。

長くなりましたが、次回その2では、稲沢市のBCPから得られた重要情報に触れていきます。